生のバルド

20日に戻ってからコンピュータと熱い仲。
いい加減開放しないと、と思いつつこの4日間。
かなり今までにないくらい長時間密接だった。
こどもが延々と二人で楽しく遊ぶのをいいことに
読む、書く、調べるの連続。

そろそろいやにもなってきた。
昨日はちょっとそれでさみしくなった。
誰もしゃべる人がいない・・・。

友人に電話。10時ごろ。
彼女からも実はがん治療に対する情報を得てしまう。
感謝。 探し物は今日は見つからなかった。
でもきっとそのうちもっと動きがあるだろう。
私ももっと動き出すのだろうし。

チベット生と死の書より 現世ー生のバルドからの抜粋

《神々の生の質はわたしたちの人間のそれにまさっているように思えるかもしれない。だが師たちは、人としての生こそ比較にならないほど貴重なものだという。なぜか? なぜなら、わたしたち人間は悟りの素材となる気づきと知性をそなえているからである。
人間世界に満ちみちている苦しみそのものが、わたしたちに精神的変容を迫るからである。 痛み、悲しみ、喪失、やむことのないさまざまな落胆。 これらは本物(リアル)で劇的な目的のためにあるのだ。
わたしたちを目覚めさせ、輪廻の輪を打ち破ることを可能とし、むしろ強いて打ち破らせ、閉ざされた輝きを解き放つという目的のためにあるのだ。
この人としての生がかけがえのないものであり、思いもよらない潜在的可能性を秘めていることを、すべての宗教的伝統が力説してやまない。 今のこの生があたえてくれている変容の機会を逃すと、次にその機会を得るまでにどれだけの時間を待たねばならないか知れないのだと、それらの伝統は語る。
盲目の亀が一匹、宇宙と同じ広さの海の深みを漂っている。海面には木の輪がひとつ、ぽかりと浮かんで波間に揺れている。 百年に一度、亀は水面に顔を出す。人として生まれるということは、水面に上がってきたその亀が偶然木の輪のなかに首を突っ込むよりも稀なことなのだと仏教は説く。そしてさらに仏教はいう。
人としての生を受けても、教えに出会うという途方もない幸運に恵まれる者はされに稀だ。 そのうえ、教えに出会っても、それを行為として体現するほど深く参入するものはそれ以上に稀だ。
「昼間に見える星」ほどに稀なのだ、と。》



私が今むきあっていることは正に、リアルで劇的な目的のためにあるとしか
いえないと確信している。 各自の精神的変容なしで進化はできない。

人が生まれてくるのが、今生きていることが本当に奇跡だと気づいたのは
乳がんが診断される前だったけど、実際それをこの3年ひしひしと感じながら
生きてきた。その気持ちが最近さらに深くなる。

すべてにまさに全てに意味があるのだ。
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by mi-chanlucalu | 2012-04-25 07:10 | 生きること